2018.09.05

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また、出口の見えないトンネルの中に深く、深く入ってしまった。
身動きを取るのがこわくて、しゃがみこんでしまう。
疲れた、もう疲れたなぁ。
肉親に当てたひどい言葉の刃は、やがて自分にも向かう。
こういうとき、自分がいかに無力な存在なのか、悲惨さに疲れて果ててしまう。



今週から復学をした。
再び学問に向き合う決意を固めたものの、再スタートというものは並々ならぬ。
正解が与えられない無数の問いの中に自分を落とし入れ、それはまるで中身のわからない箱をひとつずつ開ける作業に似ている。
果てしなく、また自分を立ち返るたびに虚しさに呆れる日々である。

でも、悲しいことに、そうすることでしか生きられないのだ、自分という人間は。
惜しむものは自然ばかり。
冷気を含んだ風に当たりながら、また新しい季節を向かい入れる。
絶望とは、常に自分の背後ろを憑いて回る。

2018.08.27


今までも、きっとこれからも、王道じゃない道を選ぶだろう。
悲しいほどに「普通」という道を選べなかった。
なぜなら、わたしの人生に「普通」「平凡」という選択肢が許されなかったからである。
この件に関して、たくさん親を恨んだし、本人にも恨み言をぶつけたことがある。
小中高生のわたしは、よく周りと比べて、自分の異質さに悲しんで、やがて大きくなるうちに悲しむことを諦めた。
最近、その諦めたはずの悲しさを思い出し、余計に落ち込むようになってしまった。


「普通に働く」「普通に結婚する」
自分のそんな姿さえ想像できず、今もその普遍的な幸せを遠目から眺めている。
こういうことを誰かにもらすと、こんな言葉を返された。
「あなた自身が『普通』という選択肢を蹴っているじゃない。」
そうなのかもしれない。


普遍的な選択肢を諦めたわたしは、自分の将来を悲観するわけでも楽観するわけでもなく、冷静に受け止めるようになった。

「お母さん。ごめんね。わたし、たぶん結婚しないと思う。既存の結婚制度にも不満があるし、自分自身が他人との共生を必要としても、『異性』である必要性を感じないの。親不孝でごめん。孫の顔も見たいかもしれないけど、ごめん。」

ある日、母親に正直に胸の内を打ち明けたら、こう返された。
「無理やりしなくてもいいし、必要に感じなかったらしなくてもいいと思うよ。お母さんはそう思う。」
その言葉に、不思議なくらい胸が軽くなった。



明日からも生活を営むなかで、わたしは「普通」の選択肢を選ぼうとして諦めたり、あるいは見向きもしないかもしれない。
でもわたしは結構、この「普通じゃない」わたしのことを愛しているのだ。


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2018.08.07


8:30 起床。
1時間ほどベッドでごろごろした後、起き上がり軽くストレッチ。シャワーを浴び、桃を朝ごはんに食べる。
ゆっくりと準備をして、Youtubeを見たりしているとあっという間にお昼に。
簡単に食事の用意をして、食べ終わったら片づけて家を出る。


13:30 出勤。
クーラーの冷えたオフィスで、ブルーライトを浴びまくる。
時給制ではなく歩合制のため、その日によってまちまちではあるが、今日は17:00頃に退勤する。
混雑した道をバスで1時間ほど揺られ、西日を浴びながら帰宅。


18:00 夕飯。
といっても、病み上がりで出勤したら体調がまた少し悪くなり、簡単に済ませてしまう。
こういうところが余計に不健康だとわかっていても、料理をすきになれない私は適当にものを口にする。
身体の疲れをリフレッシュさせたくて、だいすきなアイドルのDVDを再生する。
20:00 すきなアイドルのYoutubeが更新され、動画に癒され、友人たちと感想を言い合っているうちに夜が深くなる。
シャワーを浴び、ひたすらTwitterをしたり、Youtubeを見ているうちに1日が終わる。
23:30過ぎ、ブログを書き始め、今日という1日を振り返ってみる。
改めて自分がいかに非建設的な1日を生きているかを再確認し、明日こそはと心持を新たにする。


0:00過ぎ 就寝(予定)。


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2018.08.04

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体調を崩した。
寝て、吐いて、点滴を打って、薬を飲んで……なんとか回復をしている。
熱は未だに残っていて、平熱が低いから余計に気持ちが悪い。




自分が数年間、おざなりにしていたものをきちんと知りたいと思い始めた。
休学をして、人に会う時間を減らしていたけれど、最近は少しずつ人と接する機会を増やしている。
人と会うたびに、ああでもない、こうでもないと思考を巡らせてしまうけれど、そのことを話すと「頭で考えすぎ」と注意を促される。
2年間人類学者として、研究者としての視点が、良くも悪くも実生活に影響を及ぼしていることは薄々わかっていた。
もともと、思考に潜ることがすきなのだ。
考えることがすきで、人の話を聞いたり、本を読んだり、映画を見ることも、そのコンテンツを摂取することよりも、それらを自分の言語に通訳することが楽しくて、ついつい自分だけの殻に閉じこもって考えすぎてしまう。
自ら孤立を選んでいたことに危機感を覚えたのも最近のことだけど、ひっそりと息を潜めていた期間を経て今少しずつ人との交流を増やすことは、このような私の癖をリセットさせるのに効果的だと思う。
私は自分の思考に浸ることがすきで、目の前のことに対して誠実に向き合うことをおざなりにしていたのである。
習慣はすぐには変えられない。けれど、オフにしていたスイッチを入れるように、感覚が鮮明になっていくのを少しずつ体感している。
私は今自分の立つあらゆる環境をもどかしいと感じるのだけど、何よりも変えたいのは私自身なのである。


相変わらず考えることはやめられないので、積極的に外に出るための口実のために映画をよく見ている。
どこかでまとめたいなぁ。

2018.07.31

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言語が急に不便になるときがある。
思考に言葉が追いつかなくて、脳内で糸のようにぐるぐる固まる。
非常に気持ちが悪いし、そういう風に言葉が上手く出てこないときは、とにかく悔しくなる。
私には特出した才能がない。
すきなものはたくさんあるけれど、上手くできなくてそれが常にコンプレックスだった。
私の身一つでなんとか武器にできるものっていったら、唯一それが「言語」なのである。
だからこそ、人前で上手く言葉がしゃべれなかったときは、尋常でないくらい落ち込むし、自分には何の価値がないようにさえ思える。
特に最近の私は、使う言語が偏ってしまうので、いざというときに瞬発力が落ちてしまう。
なんとかしたいなぁ…。



近所の騒音が気になってしまう。
隣人の生活音や、配達に来るおじさんの声、隣の家の犬の鳴き声など。
そんなときは、ひたすら音楽で部屋を満たし、すぐに眠ってしまう。
朝になれば、音なんて気にしなくていいから。

2018.07.26

neruyooo.hatenablog.com


このときの生徒から急に連絡をもらった。
といっても、直接ではなく、このとき一緒に行った先生からメッセージが来たのである。

「来年は絶対に会いたいです。先生だいすきです。」
というまっすぐなメッセージに、心が温かくなった。
ああ、意味があったんだな、人との繋がりっていいなぁ、とじんわり胸にしみるのを感じた。




今日とある本を読みながら感じたのだけど、「美」とは何なのだろうか。
わたし自身、コンプレックスの多い人間だと思う。
体型や身体の部位、精神的な部分にまで挙げればきりのないコンプレックスを抱え、それを普段は見て見ぬふりをしている。
特に日本よりも外見主義な韓国に住み始めてから、外見におけるコンプレックスをさらに拗らせた。

「内面の美は外面の美を上回る」というのが、道徳的で良心的な見解であるけれど、でも内面が外見に反映されるのも事実だよなぁ。
内側の美が外にも表れるような、そんな気高く強く美しい女性になるのが生涯の目標であるが、果たしてそんな風になれるのだろうか。
もちろん、外見のコンプレックスは気になるのだけれど、最近は内面を磨きたいなと思っている。

2018.07.25


永遠に続くかと思った地獄のトンネルから抜けられたのは、無理やり帰国した5月のこと。
子どものようにわんわん泣きじゃくったら、すっきりしたのである。
きっかけはそんなことだったけど、トンネルを抜けて見えた景色は以前とは全く違い、嘘のように肯定的に受け入れられるようになった。
元々楽観的な性格だと言われることが多かったが、そういう意味では元の自分に戻れたのかもしれない。


苦しくて重いトンネルの中から、自分という存在と嫌というほど向き合い、また、他者というボーダー、世界とどう付き合っていくべきかひたすら考えた。
結論とはシンプルなものであるが、それに至る過程こそ核心だったのではないか。
今はそれを適用させるために、社会復帰を兼ねて鍛錬している。
地獄の時間を振り返り、それを数少ない他者に零すと、「あなたはその年齢で結論にたどり着いたのね」と言われた。
自分と他者とのボーダーラインにどう付き合うのか、自分をどのようにして受け入れ愛し、また他者を愛することができるのか。
そんなことを考えては、様々な媒体から答えを探す。
知りたいことは本に書いてあったり、歌詞にあったり、誰かの人生の中にあった。
しかし、知っていることとできることは全く別で、まだまだ上手くそれを操れない。
焦ることない。人生まだ25年。いや、正確には24年と10か月。残された時間の方がずっと長い。



放送局でのバイトは、必要以上に人と関わることがないし、仕事内容も自分に向いていると思う。
交通が不便ではあるが、これ以上に条件が良くて自分に合っている仕事を見つけられそうにもない。
来週になれば、新しいビザが発行され、外国人ではなく韓国人という身分を得ることができる。

そろそろ復学の準備を本格的にしなければならないし、なんなら試験の準備だってある。
昨年末からの長いお暇から復帰することは、身体的にも精神的にも容易いことではないが、気合いをいれたい。
夏の暑さを言い訳にするのも、そろそろやめたいな。