2016.12.07

f:id:neruyooo:20161207200334j:plain:w350

期末時期は追い込まれて余裕がないからか、集中力もあがるし、頭の回転もよくなる。
普段からこのくらいできてたら、今こんなにひーひーしなくてもいいのに、と思うけれど。

読書というのは、本を読んで内容を理解することだけど、学術体系においての読書は、「消化したものを自分の言葉で説明できること」までを指すのだと思う。
文字を書くためには、参考にする本たちをちゃんと理解しなきゃいけないし、読んだことある本でも、上の作業を通して、いかに自分が理解できてなかったが分かるし、そしてずっと整理できなかった部分がすーっと理解できるときがある。
理論が理解できたとき、理論と現実が結びついたとき、頭の天井が抜けるような感覚がある。
ある学者は、この頭の天井が抜ける感覚の快感と中毒によって、果てしない道でも、たえず研究することができると言ったが、なるほどこういうことかと実感した。
授業で教授が言っていたこと、本を通して研究者が言っていることが、長いスパンをかけてやっと理解できるようになった部分がある。
私はもともと頭がいい人間ではないので、周りの人間よりはるかに長い時間がかかってしまう。
研究し続けることは、終わりが見えないし、自分の思考をずっと苦行の過程に置くことなので、それに苦しみながらも、学術の道を選ぶ先輩が多いことがずっと理解できなくて、疑問に思っていた。
が、なるほど。私よりもはるかに思考力のある人たちは、何回もこの感覚を味わっているのだろう。
いかにやみつきのある快感なのか、やっと理解することができた。
といっても、私はまだまだだけど。

それは何?思うに、いや知っているといったほうがいいかもしれないけど、それは生き残ることについてだ。トラウマや喪失、苦しみや痛みや、そうしたもろもろのもののなかで自分を見失うことについて。自分を回復する道を見つけることについて。正気を取り戻し、何も考えたくないという思いと決別すること。自分自身や自分の過去を、そして将来も現在と変わらないという可能性を、認めない、認めたくないという気持ちを越えること。それが、わたしのパフォーマンスの意味だ。

全文載せたいくらい、読んでいて心を動かされた一文だ。
モーハンティー『境界なきフェミニズム』の文中で登場した、アフリカ系アメリカ人のフェミニスト活動家・ヤンセ・フォードの言葉だ。
個人的に、モーハンティ―は尊敬する学者のひとりだし、この著書も私に多くの感銘を与えた。

結局、私があらゆる形で「書く」作業をしていることの目的は、自己肯定をしたいんだろうな。
あわよくば、私のような人に希望を見せたいという思いも。
どのような形であれ、それは『人生をかけた闘い、人生のための闘い』だし、そして他の道があっても私はそれを選択するんだろうな。

2016.12.06

昨日、授業ひとつが閉講した。
他学科の授業で、私ひとりだけアウトローだったやつ。
たまにめんどくさい課題があったりはしたけど、基本的にリーディングも課題もなくて、思ったよりも気軽に受けていた。
なによりめんどくさかったのは、チームプロジェクトで進行するから、超個人主義の私にとってはそれが一番ストレスだったり。
とかいいつつも、いい人たちだったし、この授業を受講してよかったなと思えた。

まぁ、他学科っていうか、経営学科の授業なんだけど、私の所属する社会科学系の学問では、こてんぱんに批判する対象の代表が、政治・宗教・経済なわけで。
教授が授業の最後に、「君たちは『経営者』と聞いて、どういうイメージを持つ?」と聞いた。
私は当然、マイナスなイメージしか浮かばなかったのだけど、教授は「経営学専攻している人はみんな、肯定的なイメージしか持たないんだよね」と言った。
この教授は、私の学科のある教授と親交が深く、その教授の授業に行って講義したことがあるらしく、その話をし始めた。
そして、「君たちは知らないと思うけど、社会学科とか人類学科とか社会科学系の人は、経営学に対して否定的なイメージしか持ってないんだよ。そこで講義したとき、生徒たちの視線が冷たくてすごかった」と、私を見ながらにやりと笑った。
経営学科の学生たちは、みんな苦笑といった感じで笑ったけれど、その様子が簡単に想像できてしまう私だけ、ひとりで大きく笑っていた。

社会科学系と経営学・経済学の間の溝の深さを、大学院に来て実感していた。
社会科学では批判の対象で、敵対意識をもつ人が多く、反対にあっち側はこちら側をあまりにも知らないし、そもそも無関心だ。
そういう溝があったからこそ、この授業で若干の「居心地の悪さ」を感じていたけれど(そしてこの「居心地の悪さ」がなんなのか、あちら側はわからないし想像もできないこともわかってしまうからよりいっそう空しい)、ひと学期終えて、理解しあえなくても、歩み寄れることを実感した。

授業を終えたあと、教授のおごりでみんなでごはんを食べに行った。
ここに来て、閉講後はみんなで打ち上げするのが当たり前なんだけど、韓国の文化なのか、大学院の文化なのか。
私だけアウトローと言ったけれど、それでもクラスの人数が少ないので、基本的にみんなでよくしゃべった。
私と同じように、外国育ちの韓国人が何人かいる。
その中でも、中国育ちの彼が、「親近感がわく」といろいろな話をした。
「俺のこと、韓国人に見える?中国人に見える?」と聞いてきた。
周りは「こいつ、状況によって韓国人になったり、外国人になったり立場コロコロ変えるんだよ」と笑っていた。
「外見でいえば、中国人っぽい雰囲気あるけど、二分法的に考えなきゃだめなの?だって、あなた中間でしょ」と言ったら、彼は目を丸くして驚いたあと、嬉しそうに笑った。
「さすが。よく分かってる。そう、俺は中間だから」と。

人類学では特に、一般化せずに多様性をそのまま受容することが当たり前なんだけど、普通学問では、一般化・普遍化のツールで考えなければならない。
特に考えずに発したわたしの言葉が、外の世界で誰かの胸に届いたことを体感できた。
こういう瞬間のために、必死で勉強してきたのかな、と肯定的に考えられそう。

f:id:neruyooo:20161206153834j:plain:w350


まぁ、私と経営学者との一方的な温度差には、長い歴史がある。
ずっとその温度差について、消化ができなかったけど、今回の授業の一番の収穫は、それを克服できる知恵を学べたことかな。

2016.12.03

f:id:neruyooo:20161203221724j:plain:w350

この学校のツリーを、写真で見たことは何度かあったけど、直接見るのは初めてだった。
写真で見るよりも普通、っていうのが率直な感想。
とはいえ、校内に大きなツリーがあるのは嫌でも気分が良くなる。
ずっとクリスチャン系の学校がうらやましかったのは、こういう行事を色濃く出してくるところだったから。


あと、新しい髪型が思ったよりも好評でうれしい。
私からしたら、一周して戻ってきたからそんなに新鮮ではないのだけど、ここで出会った人たちは初めて見るスタイルなので、目が慣れないらしい。
ちなみに、うちの研究室ではショートヘアにする人が最近増えてるのだけど、「みんなストレス解消に散髪するのね。そのうちみんな僧侶になってるんじゃない?」と先輩が。
たしかにさっぱりと髪を切ってしまうのは、とてもストレス解消になる。

しかし、私は10月11月、地味にお金を使いつづけ、今月は身を締めて節約をすることにした。
買い物でストレス発散していたのと、ビューティーユーチューバーにはまってしまい、ついつい化粧品に手を伸ばすようになってしまったからだ。
この身はひとつしかないし、こういうのに凝りだしたらキリがないので、とりあえず化粧品と服を買うのはしばらくストップ。
食くらいはストレスを負いたくないので、食費はそこまで切り詰めないつもりだけど。
ていうか、今月はちゃんと食べないときっと倒れる。

12月のスケジュールは、ほとんど学校の予定で埋まっている。
課題提出に、発表に、学会に…。
冬休みは頭を休めるつもりなので(まぁそれでも本は読むつもり、てか読まなきゃ)、あとひと月と言い聞かせる。

2016.12.01

f:id:neruyooo:20161201224021j:plain:w350

f:id:neruyooo:20161201224042j:plain:w350

12月が始まった。
新しい月を迎えるたび、新年のように心を新しくするのだけど、今月はそういう気持ちになれないな。
にしても、秋学期は本当に時間が過ぎるのが早い。
私だけではないはず。

先週抱えていた、勉強に対するスランプ(今思えばこれだったと思う)を、抜け出せたんだと思う。
今週はひたすら目の前にあることをやっていたのだけど、今日スランプから抜け出せたことを実感した。
研究にはおわりがないし、大学院生活は大変なのたしか。
でも、その分得るものがあるし、この過程を通して新しいことを学ぶし、たくさん成長できると思う。
と、自前のポジティブさを発揮できるまでに回復した。
私の長所は、たくましさとポジティブさだと思うんだけど、これはある種の生存戦略で正当化とも言える。
でも、状況なんてなかなか変わらないし、こうやって観点を変えてしまうことは逃避ではないと思う。
私は極端な人間なので、先週のようにぐったりすることもあるが、結局は同じところに帰ってくる。
いつになれば、このジェットコースターから降りることができるのか。


f:id:neruyooo:20161201224133j:plain:w350

あと、今朝思い立って予約し、授業後に美容室に行った。
かなり短くし、パーマを生かしたワンレングスになった。
そう、つまり1年かけて結局一周したのだ。
人によっていろいろな意見があると思うけど、私はこの髪型が一番しっくりくるし、自分に似合うと思う。
私の着たいファッションにも合う。

ちなみに、おじいちゃんには「大人っぽくなった」と言われ、おばあちゃんには「幼くなった」と言われた。
果たしてどっちなのか。
まぁ、1年かけて自分のスタイリングを探せたということで、またポジティブに考えておこう。



웨터 (wetter) - who MV

最近見つけたインディーズバンド。
韓国のバンド・カルチャーは、だいぶ日本の影響を受けていると思う。
デビューしたばっかなので、これからどういう音源を出していくのか期待している。

2016.11.29

f:id:neruyooo:20161129231809j:plain:w350

f:id:neruyooo:20161129231834j:plain:w350

韓国で一番すきな日本食屋さん。
ここのそばもおいしいし、サーモン丼も明太子クリームうどんもとんかつも最高においしいけど、寒くて温かいハンバーグ丼をセレクト。
久しぶりに来たけど、相変わらずおいしい。
家の近所にあって、住宅街に小さく店を構えてるのにも関わらず、来るたびに人気が多い。
なにせ、韓国であんまり日本食を食べたがらない私でさえ、食べたくなるクオリティだからだ。

たまにはおいしいものをひとりでゆっくり味わって、活力にしてあげてもいいかな。
あとひと月は、ひたすらがんばるしかないのだから。
偶然目にした言葉だけど、「自分を甘やかすのではなく、やさしくする」というのが響いた。
私に足りないのは、私自身に対するやさしさだったのかな。


先週実施したインタビューの書き起こしをしているのだけど、こうして研究材料を集めながら思うのは、自分には圧倒的にreadingの貯蓄がないこと。
時間はあんまりないけれど、もっとたくさん読み込もう。
論文を読みながら思うのは、それでも自分なりに成長していることを実感する。
周りと比較してもしょうがないし、こういうところは自己中心的に考えてもいいはず。


f:id:neruyooo:20161129233330j:plain:w350

谷川俊太郎の『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』より。
韓国、また全世界の政治を見ながら、急に開いた詩集の言葉があまりにも心に響いた。
谷川俊太郎は、私が本当に大好きな詩人なのだけど、この人の紡ぐ言葉はどうしてこうも美しく、かっこいいのだろうか。

2016.11.28

f:id:neruyooo:20161128232131j:plain:w350

f:id:neruyooo:20161128232202j:plain:w350

週末は久しぶりに肉を食べた。
新鮮な肉を目の前で焼いて食べるのが、本当に本当に久しぶりで、いつぶりか考えたくもないくらい久しぶりだった。
私が肉食なのを知っている人は、こうしてたまに「肉食べるよ!」と誘ってくれる。
それが本当に嬉しかったし、おかげさまで今週がんばろうと思えた。


今日提出の課題をなんとか終え、自宅に帰ってきた。
家で勉強ができない私にとって、自宅という空間は「休む場所」であり、勉強する空間でない。
とはいえ、今日はというか、しばらくは自宅に帰っても勉強せざるを得ない。
果てしない教材を見ながら、ため息を堪えて向き合うしかないのだ。


ずっと、腸の調子が悪いのだけど、食欲はあるしお腹はすくのだから、結局食べるし、なかなか治らない。
「せめて消化にいいものを…」と思っても、勉強しながら間食を差し出されたときは、甘えて食べてしまうくらい、意志が弱い。

原因はきっとストレスなのだから、ストレスの原因から解放されればすぐに治ると思う。
つまり、学期がおわった瞬間治るはず。
あとひと月はひたすら耐えるしかないな。

2016.11.26

f:id:neruyooo:20161126205947j:plain:w350

今日、ソウルでは初雪が降った。
ここ最近はずっと氷点下だったから、「そういえば初雪か」くらいの認識で、あんまり感動はなかったけど。
寒さの攻撃力があがったので、ますます憂鬱になりたくなった。


ここ最近はずっと、毎週土曜日はデモ集会が開かれている。
この前は参加人数が100万人突破したというし、どんどん参加人数は増えるだろうといわれている。
それだけ衝撃が大きく、国民たちは感情を示す場所を探していたのだろう。

集会場所が近所なだけに、私にとっては単なる「政治的な出来事」ではない。
話題が話題なので、慎重になる必要があるし、なんなら沈黙が一番かもしれないけど、それでもここ最近ずっと考えていたことだ。
交通規制が入るので、ここ最近外出を控えるようになったのは確かだ。
学校に行くにも、他の場所に行くにも、公共交通機関が麻痺すること、動いても人が集中して不便が生じることを考えると、徒歩圏外に出かけることをあきらめてしまう。
家では勉強ができないので、近所のカフェで勉強することになるが、そこにも集会に参加者が集まるようになり、店内が騒がしくなる。
単に騒がしくなるならまだしも、トイレだけ利用しに来る人も増える。
私はアパート内にあるカフェをいつも利用しているのだが、普段は住民しか利用しない、とても落ちついた場所だ。
ところが、毎週土曜日はカフェだけでなくアパート内の他施設にも、集会参加者が集まるようになり、かなり不便な思いをしているのは事実だ。
今日見たら、それまでトイレに鍵を設置していなかったのにも関わらず、新たに鍵を設置し、注意の紙まで貼られている。
実際、こういうことは報道では見えないが、事実起こっていることだし、近隣住民が迷惑だと思っているのも事実だ。
これに対してモヤモヤしているものの、実際にこれについて触れるのは勇気がいる。

集会自体の意義について、正しい行動なのかどうかの判断はできないし、それを追求する必要もないと思う。
だけど、こうして語られない部分が存在することについて、モラルを考えるようになる。
だからこそ、人間が正義を語ることは難しいし、語るべきではないのかなとも思う。
正義の使い方について、私も私のやり方を探している途中だけど、そのときも見えない部分を配慮できる余裕を持たなきゃいけないな。
ニュースで流れる、光の海を見つつ、そんなことをじっと考えてみた。


久しぶりに堅苦しいことを語った気がするけど、今日1日でessayを4本仕上げたせいで、頭が凝り固まっているのかもしれない。
なにごとも、過度に考えすぎず、適度に調節できたらいいんだけど、どうしてこうも難しいんだろう。