2016.10.27

ここ数日、課題がつらすぎてぐったりしていた。
1学期を通して、克服したと思った、「わたしはここで何をしてるんだろう」という気持ちに襲われた。
気合をいれながらなんとかヤマをこえ、研究室の人たちとごはんを食べて、たくさん笑って、なんとか持ち直せたと思う。


国境 お構いなし

国境 お構いなし

現在、ナショナリズムジェンダーを絡めて、ひとつペーパーを書くために、上野千鶴子の本を読み漁っているのだけど、学術書かと思ったらエッセイだった。
筆者の著書は学術書しか読んだことがなかったぶん、もともと筆者性が強く反映される文字を書く人だけど、エッセイだとそれがいい方向性で効いていたと思う。
海外で勉強していた経験を中心にしたエッセイで、ちょうど同じような問題で悩んでいたので、スラスラとあっという間に読み終えてしまった。

たまに襲われる「わたしはここで何をしているんだろう」という気持ちについて、筆者も“What am I doing here?”という質問をずっと自分にするようになると言っていて、それだけでも励まされた。

わたしがアメリカでつくづく感じたのは、「社会科学というものは、けっして一義的な用語からなる普遍的な学知(サイエンス)ではなく、言語的なパフォーマンスだ」ということだった。たとえ翻訳マシンができても、この問題はかんたんに解決できるものではない。使用する言語に応じて異なった思考回路に自分のアイディアを乗せないかぎり、聴衆に自分自身の思想を伝えることはできない。

言語帝国主義の困難は、たんなるバイリンガリズム(二重言語使用)に尽くされない。外国語で自己表現するとは、その言語の回路に合わせた、思考のスタイルやパフォーマンスを要求されるということだ、自分の論文を「翻訳」すればいい、ということにはならない。外国語で論文を書く、というのは、自分の思考に「異なったヴァージョン」を与えるということだ。だから、外国語で論文を書くのは、日本語で同じ論文を書くのと同じ論文を書くことにはならない。まったくちがうふたつの論文を生産するということになるから、仕事の量が倍以上に増えるだけでなく、二重人格であることを強いられる。

特に共感した部分だ。
「社会科学は言語的パフォーマンス」という言葉には、激しく頷きたいし、言語によって性格の違う表現をしなければならないことも、心底同感できる。
筆者のように、超越した思考力と文才を持つ学者でさえ、この問題に悩まされたというのだから、平凡なわたしが苦労するのは当たり前か。
来たばっかりの頃、授業にヒィヒィしていたわたしに、「論文は日本語で書いてから訳しちゃえば楽じゃないの?」と聞いてくる人はたくさんいた。
そのたびに、「いや、そんな単純な作業じゃないんだけど」と違和感を感じていたのだけど、筆者の言う通り、翻訳とは機械的な作業ではないのだ。

もうひとつ、印象的だったのは、アメリカに移住した女性が、歳とって老いてボケたとき、英語を忘れてしまって日本語しか話せなくなった話だ。
せっかく苦労して言語を習得しても、あとで忘れてしまうこともあるのかと、背筋がぞっとした。
正直、わたしにとって韓国語は母国語でもあり、外国語でもあるという複雑な位置にあるから、忘れてしまうこと自体想像しがたい。
日本語は言うまでもないけれど。

思わぬ形・タイミングで出会ったエッセイだったけど、本当に今読んでよかったな。


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学校近く、早朝。
朝焼けがだいすきだ。
もう週末なのか。
この1週間はハイスピードで流れたように感じた。