2016.07.19

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先週、京都に行った研究室の先輩に「欲しいものある?」と聞かれ、「チョコ味の生八つ橋が食べたいです」と言ったら、本当に買ってきてくれた。
受け取るため、授業を終え研究室に行く途中、久しぶりに教授に会った。
「日本に帰ってなかったんだな」「あはは、暑くて」と笑いながら話した。

そして、久しぶりに食べた八つ橋は、やっぱりおいしかった。
日本の和菓子を食べたくてしょうがなかったのだ。
韓国の餅もすきだけど、日本の和菓子は格別。
豆大福、苺大福、みたらし団子も食べたくなる…。
「日本風」ではなく、「日本の」和菓子が食べられるところが、ここにもあるといいんだけど、それは贅沢なのかな。
とにかく、わたしの甘えた希望を聞いてくれた先輩には、心から感謝です。



わたしは、高校生の頃まで、勉強がすきじゃなかったし、やらなくてはいけない意義も分からなかった。
親に対する反発もあっただろうし、「勉強よりも大切なものがある」という大衆文化の謳う言葉を信じたかったのかもしれない。
それでも、そこそこやってはいたし、大学受験も希望の大学ではなかったものの、世間ではそこそこのボーダーには入った。

大学に入って、最初は勉強をする気はなかったけれど、1年生の夏休みにいろいろな刺激を受け、それから大学の講義をきちんと聞くようになった。
そのうちに今の専攻である「文化人類学」に出会い、勉強が楽しくなり、結果的に大学院を選択して勉強を続けることにしたけど。

ここに入ってから、わたしがサボっている間に一生懸命勉強していた人たちと肩を並べるたびに、自分の無知識っぷりに恥ずかしくなり、みじめになったりもした。
わたしには基礎がない。基礎がなさすぎて、話にならないと、1学期を終えて危機感を覚えた。
最近、とにかく本を読んでいることは、ここにも書いているのだけれど、読む目的を3つに分けることができる。
「研究」というのは、わたしの専攻に関する本で、論文のために読んでいる本。
「娯楽」は、楽しむために読んでいる本で、主に大衆向けの小説。
あともう一つは、「教養」としてで、例えば名作といわれる古典文学や、一般常識に関する本。
もちろん、全てを3つに分けているわけではなく、目的は重複もするのだけれど。

次学期以降、他学科の講義を受けるか迷っているのもあって、今までの人生で興味も関心も持てなかった「経済学」「経営学」「政治学」等に手を伸ばしてみたいという野心がある。
その一歩として、初心者にはまず専門家の簡略な解説本がいいのじゃないかな、と思って、ネットのレビューでも評価の高かった、池上彰の『世界を変えた10冊の本』を読んだ。

詳しい内容はともかく、今まで教科書的な知識として機械的に覚えていた歴史的事件、宗教、経済用語、政治要素が、急につながり始めて、社会の流れが、構造が急にはっきり見えるようになった。
なんで受験のときにこういうことを覚えさせられたのか、どうしてこの単語が重要だったのか、大学受験から5年近く過ぎた今、やっとわかったのだ。
今のこのわたしのまま、高校生の自分に戻ることができたら、喜んで授業を受けたのに。
「学生の性分は勉強」だったあの頃だったら、もっと真面目に、ちゃんと理解しながら、ひたすら教科書をめいっぱい読んでいたのに。

「学校教育とはなんなのか」を急に理解して、どうやったらまさに今教育を受けている当人に、そのことを理解させるための教育をすることができるのだろうか、と考え始めた。
あのときの自分がこれをきちんと分かっていたら…と、思いつつ、でもたしかにわたしの親は当時のわたしに、「なぜ学校教育が重要なのか」について説明していた。
そのときは、分かっていたつもりで、全く分かっていなかったのだ。
自分が親になったとき、そのことを子どもに教えることができるだろうか。

とか、でかいテーマについて、黙々と考えていたら、いつのまにか夜になっていた。

というわけで、この本はなかなか良い本かと。
世界の略図を理解するのに、とても分かりやすいと思う。
ただ、著者の思想が入っているので、感化されないように、適度に距離を置きながら読むリテラシーがいると思うけど。


大学で文化人類学に出会ったとき、大学院への入学当初、講義を通して新しい世界の見方を知ったとき、そして今日、社会の構造と学校教育の意義を理解したとき、「勉強の楽しさ」を全身全霊で感じて、わくわくした。
これがあるから、学ぶことはやめられないし、読書は楽しい。