2017.05.02

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連休中も元気に登校。
相変わらずの空気の悪さにぐったり。


今日はひたすら本を読んだ。
同時進行でがつがつ本を読むのが久しぶりで、最近は全然勉強ができていないことを体感した。


ナルシシズムの時代 (1981年)

ナルシシズムの時代 (1981年)

教授に勧められて、クリストファー・ラッシュに手を出した。
人類学は、精神分析学とも関わりが深くて、大学院に入ってからよく読むようになった。
ここでいう「現代人」は、80年代のアメリカ人のことを指しているんだろうけど、今にも適用できる部分が多くて、まだ途中だけどおもしろく読んでいる。
精神分析学とか心理学の本を読んでいると、改めてフロイトの功績を思い知る。

授業で読んでいた本で、「ナルシシズム」についての文脈があったけれど、他の分野でもナルシシズムについて触れることが多い。
「自己愛」と訳されたり、「自己承認欲求が強く、他人に関心のない人」と認識されがちだけど、ナルシシズムを拗らせている人って、誰よりも自分のことを愛せない人なんだよなぁ。
自分が愛されなかった記憶の悲しみと、その対象に対する憎しみの罪悪感を消すため、自分を責めるという行為も、ナルシシズムの二元的な現れだ。

個人対個人の関係が薄れ、より自分に集中するような今の時代は、この著書の時代よりもナルシシズムを患っている人が多いんだなと思うけど、ラッシュが『程度の差はあれ、誰もがナルシシズムを患っている』というのはおもしろいと思った。
こういう話って、セラピストじゃないと直接聞く機会がないよなぁ。
インタビュー重ねながら、言葉の文脈から分析することはできても、こういう話を聞けたら良いのにと思うけど、じゃあ自分は話すのかと聞かれたら、それはまた別の話か。

まぁ、その分、ここで好き勝手に書いているけれど。
『自分の感情を昇華させることができないと、よりナルシシズムを強化させることになる』ともいっていたけれど、私にとってはまさにここで書くことが、感情を昇華させる方法の一つなんだなと。


グローバリゼーションと暴力―マイノリティーの恐怖

グローバリゼーションと暴力―マイノリティーの恐怖

そろそろ期末の理論の枠組みを始めなくては、と手に取った本。
前学期、アパデュライの<Modernity At Large>は読んだけれど、これはそのあとに出た著作。
Modernity At Largeのときも、5つのスケイプを用いてトランスナショナルを捉えたのがおもしろかったけれど、これはそれを補足しつつ、「マイノリティ」の方に注目している。
特に、テロリズムを代表する「暴力性」の正体はなんなのか、ていうのが全体のテーマなのかな。

私の研究テーマは、「トランスナショナリズム理論」を大きい土台にするつもりなので、切っても切れないのがアパデュライのトランスナショナリズム理論。
前学期までは、ナショナリズム理論を中心に見てたけど、やっぱりそれだけじゃ無理そうだと実感。
なんとか消化して、自分の言語で語れるようになるといいけど。

本自体はおもしろいし、内容も自分の関心分野だから、さらさらと読める。
そしてここでも「ナルシシズム」が登場。
マイノリティ・マジョリティの緊張関係とナルシシズムの衝突による考察は、なるほどと思った。


まだ読み終わってないけど、この空気感がどうしようもなく懐かしいと思った。
「群馬」「高円寺」「中野」とかいう地名も、私にとってはどうしようもないノスタルジーだ。

朝井リョウは、言語化されない空気感を文字にするのが上手いと思う。
今作は、いわば大学生版の桐島って感じがする。

楽しすぎる瞬間は、真っただ中にいるとなぜか泣きたい気持ちになる。両手で抱えきれないこの幸福は、早く過ぎてしまって思い出になってほしいと思う。


今が大事だってわかっているからこそ、この感情に共感してしまった。
いっそう早く思い出になってくれ!と叫びたくなる多幸感も。