2016.12.18

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どうも、じわじわと身の回りに増えてくものを見ると、コーデュロイ素材にはまっているらしい。
見かけも実際にもあたたかいし、誰が着てもかわいい。
ベロア素材もすきだけど、色によってかなり印象が変わる。
いつまでコーデュロイブームが続くかわからないけど、飽きるまで存分に堪能する。


べつの言葉で (新潮クレスト・ブックス)

べつの言葉で (新潮クレスト・ブックス)

ある人の勧めでずっと気になってポチったやつを、随分経ってやっと読んだ。
開いたそのページから、作者の語る言葉はあまりにも自分の話で、内心パニックになりながらページを読み進めた。

アイデンティティが二つに分かれているせいで、またたぶん気質のせいで、わたしは自分が未完成で、何か欠陥のある人間だと考えている。それは自分と一体化できる言語を欠いているという言語的な理由によるのかもしれない。子供のころからアメリカで、両親を満足させるため、そして何よりも自分が完全に二人の娘であると感じられるように、ベンガル語を少しの外国訛りもなく完璧も話そうとしてきた。でもそれは不可能だった。一方では、アメリカ人だと認めてもらいたかったのだが、英語は完璧に話せたにもかかわらず、それもかなわなかった。根づいているのではなく、宙ぶらりんだった。わたしにはあいまいな二つの面があった。わたしが感じていた、そしていまもときどき感じる不安は、役に立たないという感覚、期待はずれな存在だという感覚に由来する。

作者の両親の母語ベンガル語で、作者はアメリカで育ったため英語が第一言語だ。
どちらの言語にも寄り添えない体験は、私が嫌でも向き合わなければならないそれと一緒だ。
作者は、家では英語を禁止され、ベンガル語でのみしゃべることを強要されていた。
それと比べれば、私の場合はそこまで徹底的な教育はされなかったけど。
英語でもベンガル語でもない、「イタリア語」との出会いは、不完全という完全さを与え、二重のイデオロギーから解放される。
私は多言語を操ることはできないから、そこまでの感覚はまだよくわからない。
けど、例えば学校で苦しまされている英語、例えば大学のとき選択したフランス語を、私が言語として扱えるようになったときは、私もこういう自由を手にするころができるのかな。
そういう意味で、私にとっては希望の本だった。

にしても、作者がイタリア語修得に至るまでの努力は、見習わざるをえないものだった。
私はあそこまで切実に言語学習をしたことがない。



週末はちょっと、気が抜けてしまってだらだらしたけど、火曜日までに一本仕上げなければいけないわけで。
ちょっと気合い入れなおして、とりあえず火曜まで!がんばろう。