2016.07.06

今日、クラスに行ったら、日本人がほとんど別のクラスに移動して、新しく中国人が何人か来た。
韓国語も勉強中で、韓国語が上手いわけじゃないので、必然的に英語が主流になる。
おぉ、さすがわたしの神様、応答が早い、と感心した。
切実にでも英語を使う環境がほしいと思ったら、さっそく環境が変わってびっくりした。
もちろん、わたしの拙い英語でコミュニケーションは難しいのだけれど、語学は切実な環境にでもならないと伸びないことは、わたし自身がよく分かっている。


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雨が続いたソウルに、久しぶりの青空。
久しぶりの日差しに眩暈がしたが、陽の光をたくさん浴びて、元気も出た。
やはり生き物には、太陽の光が必要だ。

陽の光を浴びて元気になったからか、図書館で3冊本を借りてきた。
左から、村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』の英訳版、三浦しをんの『舟を編む』、有川浩の『レインツリーの国』だ。
小説は1冊を一気に読んでしまう傾向にあるのだけど、今回は3冊同時にちょこちょこ読み進めている。
『レインツリーの国』は今日にでも読み終えられそう。
図書館にある日本語文学も、数が限られているものだから、目についたものを選んだけれど、どれもテーマが全然違って、とてもおもしろい。

村上春樹は、もちろん原書の日本語で読んだことがあるけれど、癖のある文体が合わなくて、自分から進んで読まなくなった。
しかし、日本外の国の人と話してると、頻繁に村上春樹の話題が出る。
それだけ、彼が日本を代表する作家であるということなのだけれど、日本から来たわたしが、村上春樹についてあまり知らないのはまずいかなと思って。
彼の著作は、英語訳が癖がなくて読みやすいと聞いたので、勉強も兼ねて挑戦。
今のところ、なんとか躓かずに読んでいる。


韓国は、3ヵ国語以上扱える人間が多すぎる。
わたしの親戚内だけでも、友人を見ても、いわゆるマルチリンガルがあふれていて、常に言語に関して劣等感を持っていたけれど。
言語は武器だ。言語は希望だ。
韓国語を完璧に扱えるようになりたいと心から思ったのは、高校を卒業してからだし、英語に関してはここ最近だ。
行きたいところに行くため、言いたいことを言うため、その手段であり、最低限の装備なのが言語だと、わたしは思っている。
つまり、言語を獲得することが目標ではなく、目標のために言語を獲得しなくてはならない。
それは果てしない道で、なかなか終わりが見えなくて、もっと楽できる道があるのを知りながら、その誘惑を断ち切ってわたしはここにいるのだ。
たまに投げ出したくなるときもあるけれど、歯を食いしばって、その道を選んだのは自分自身に喝をいれている。

また、他の言語に触れるたびに、自分が日本語を愛していることが分かる。
愛着という意味もあるけれど、日本語で書かれた文章が大好きで、日本語で文章を書くことがどうしようもなく大好きなのだ。
もちろん、韓国語も愛しているし、英語だってもっと仲よくなりたい。
これ以外の言語にも興味あるし、隙あれば手を出したいとも思っている。
だけど、自分がどこに行っても、何をしても、日本語を話そうが話さなかろうが、わたしの人生に日本語は一生ついてくるんだなぁと実感した。

こういうことを考えたのも、『舟を編む』を読んで、小中学生のとき夢中で国語辞典を読んでた自分を思い出したからだ。
日本語という言語を特別視して、賛歌する気はないけれど、自分のネイティブな言語として、日本語に触れることができてよかったなと思う。
外国語として日本語と出会っていたら、どういう印象をもったのかなというのも興味深いけれど。


静かな夏の夜、もう少し本を読んで、寝るとしよう。