2017.06.25

10日以上日が空くのは初めてかもしれない。
「なるべく毎日、もしくは2日にひとつは書く」という目標でやっているのにも関わらず、こんなにも低浮上になってしまったことにはちゃんと理由があって。
学期末真っ最中です。

24日にひとつ、25日にひとつ期末paperの提出があって、先週は毎日デッドラインと闘っていた。
加えて、先週の月曜日から急きょ日本から両親が来て、学期末の忙しさが普段の10倍くらいに。
ほとんど学校で過ごしていたから両親の顔もまともに見れなかったんだけど、課題の提出をしたあとは、やっと少しだけのんびりと一緒に時間を過ごした。
といっても、私が疲れすぎて、ほとんど死体の状態だったんだけど。
「よりによってこんな忙しいときに来なくても…」と思うけれど、それでも久しぶりに両親の姿を見るだけで、精神が安定するのがわかってうれしい。


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学校や家族のことだけでなく、他の要件でもばたばたしていた。
友達の誕生日をお祝いしたり。
久しぶりに会うお姉さんとごはん食べてたら、共通の知り合いと偶然出くわしたり。
世間は狭すぎる。


にしても、私の休みはまだまだ遠い。
学部生なんかは先週からとっくに夏休みだし、他の院生もほとんどは夏休みに入るのに、私にはまだ28日の発表と30日デッドラインの課題が残っている。
あと一週間だけ踏ん張ろう、と心を決めてもこれがなかなかキツイ。

正直、文字を書くということを愛している私でさえ、言葉をこわいと思うようになる。
私の書く言葉は、果たしてどう受け取られるのか。
私はこの人の言葉をきちんと受け取って書けているのだろうか。

そんな私の背中を押す言葉は、「誠実さ」ということ。
できてもできなくても、誠実に向き合う姿勢を崩さないように。


今週だけちょっと力を振り絞って、3学期目の区切りを。

2017.06.13

白河夜船 (新潮文庫)

白河夜船 (新潮文庫)

気づくともう、頭が少しずつ背もたれのほうへ沈んでゆく。はっと起きて雑誌をめくってみるのだが、気づくと同じところを幾度も読んでいる。まるで教科書を見つめて眠る午後の授業中のようだわ、とまた目を閉じた。外の曇り空が部屋の中へ流れ込んできて、脳髄をおかしているみたいに思えた。回る洗濯機の音も、なんの目覚ましにもなりはしなかった。私はもう、なにもかもがどうでもよくなり、ブラウスとスカートをずるずると床に脱ぎ捨てて、ベッドに入った。


私はもともと、寝つきがかなりいい方で、布団に入ればいつでも眠れた。
その代わり、眠りが深く、昔から「昼寝」が苦手で、ショートスリーパーがうらやましかった。
朝型人間を自負するように、寝覚めもかなり良くて、早い時間に目を覚ますのも、起きててきぱきと動くのも得意だった。
朝が苦手な家族の中でいちばん早起きだったし、実家にいるときは朝いちばんに起きて、家族の分まで準備することもよくあったと思う。

ところがここ最近、寝覚めが悪く、一日中夢の中にいるように体が重かった。
まるで現実逃避のように、睡眠に逃げてしまいたい衝動に悩まされてる私にとって、思わぬタイミングで出会った一編。
主人公の女性の生活が、眠りに浸食されている様子が、ここ最近の自分の生活と重なった。

痛々しさと切なさを、やさしく肯定してくれる作品だった。
逃げることを悪とする社会に対して、そういう休息をとることは悪じゃないと語ってくれる。
内容は重々しく、救いも見えないけれど、そういう暗闇の中にいる人たちにとって、休息を肯定してくれる言葉はどれだけありがたいことか。


つい最近も、教授が「鬱の中にいる人がとるべき行動はただひとつだけだよ。一刻も早くそこから立ち上がって、とにかく歩き続けること。余計なこと考えられないくらい、疲れてしまえば大丈夫。ひとりで部屋の中で考えても、答えなんて出ないんだから。」と言ったのだけど、私もその言葉には賛同する。

私自身もうつ病になりかけたし、周りにもうつ病の人や経験のある人が多いからわかるのだけど、暗闇の中で答えを出そうとしても出るわけがないのだ。
心を放してじっくり休むか、体が疲れるまで動くか、これしかないと思う。


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まるで祈りのような気分だった。
―この世にあるすべての眠りが、等しく安らかでありますように。

やさしさをギュッと詰め込んだこの言葉に、どれだけの人が救われたのだろうか。
私がつらかったとき、やさしく寄り添ってくれたり、明るい方へ引っぱってくれた人たちのように、私もそういう人になりたいと思う。



そしてまぁ、私の睡眠の件は、少しずつ解決に向かっている。
朝方体が重く、なかなか起き上がれないのはつらいけど、起きれない自分を責めたりするのはやめようと。
思い通りにならないとき、自分でさえも自分を否定したらだめだよな、やさしくしてあげたいなぁ。

2017.06.12

探しもののため、昔使っていたメールアドレスのアカウントにログインをした。
それは主に中学生の頃使っていて、私はその頃インターネットを通じて知り合った人たちとよくメールのやり取りをしていた。
中学生の私は、まぁほとんどの人がそうであるように黒歴史であり、いちばん人間関係が上手くいっていない時期だった。
だいたい、中学生の頃から、わかりやすくグループや派閥ができて、カーストが可視化する。
私の地元は幼稚園から一緒の人が多くて、小中学校はそのまま持ち上がりだし、ほとんどの人と仲はよかったし、別に嫌なことされたりはしなかった。
でも。中学生からの明らかにカースト制や派閥制に馴染めなかった私は、学校では心を閉ざして適当に付き合って、インターネットの人と親しく過ごすようになった。
同じ年頃で、なおかつ趣味が合う人と画面越しの関係は、そのときの私には心地の良いものだった。
今の自分が改めて当時の文面を読みと、あまりの幼さに赤面してしまう。まぁ10年も前だから、しょうがないんだけど。

そのとき仲良くしていた友達とは、高校にあがって以来パタリと連絡をとらなくなった。
高校に入って友人に恵まれたことによって、画面越しの友人も必要としなくなった。
ひとりひとり、名前や年齢を正確に覚えているわけではないけど、当時のやり取りを見ながら懐かしくなった。
今や連絡を取る術をもたない人たちだけれど、あの頃の私にとって大事な友人であったのは間違いがないからだ。


それと同じく、当時母がひとりで韓国に長期滞在していた時期があった。
その頃の母と私のメールのやり取りもでてきて、笑ってしまった。
当時の私がいかに稚拙でわがままだったのか。
当時の母がいかに大きな愛で包んでくれていたのか。
どうしてその頃は、愛情だと認識することができなかったのだろう。
これも黒歴史に間違いないんだけど、懐かしくてスクショして母に送ったら、母もすっかり忘れていたようだ。
まさか10年後、私がひとりで韓国にいるとは、当時想像もできなかったね、と話した。

なるほど、メールがサーバーに残っている限り、タイムカプセルのようにもなるのか。
LINEやKAKAOTALKだとこうもいかないよなぁ。
母と「たまにはメールでもやり取りしようか」と決めた。
きっとこの時間もあとで、懐かしく、愛しく思う日が来るのだろう。

私は、インターネットのこういうところが好きだったんだなぁ。
特に私が中学生だった、10年ほど前の頃は。
今やインターネットは身近なものになったけど、当時はまだ今とは違う文化があったんだもの。
友達とのメールで、「何時に集合ね!」とチャットのURLが貼られていたりして、本当に懐かしくなった、
インターネットも随分と変わってしまったなぁ。


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友達がこの前送ってくれて、増えたヲタクコーナー。
休みになったらデスクもちょっと整理しないとなぁ。
そしてうれしいことに、8月は本物に会えそう。

その前に、期末をきちんと倒そう。

2017.06.08

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友達を引き連れ、インタビューをしようと入ったカフェには、美人な白猫が2匹。
顔がスッとしていて、2匹ともマイペースなくせに人懐っこかった。
かわいさに人間はノックアウト。
学校からも近いので、定期的にこの子たちに会いに来たいなと思う。


そんなこんなでインタビューは、たくさんの話を聞けてよかった。
毎学期少しずついろんな人にインタビューを実施しているけど、元から知っている人も、知らない人も、本当にたくさんの話を聞ける。
その人のことをわかっていたつもりでも、新しく聞く話や、思わぬ内面を覗くことができて楽しい。
人の内面に触れることは、神経を遣うし、気が参ることもあるけれど、この過程をとにかく大切にしたいと思う。


「論文に自分のことは書かないの?」と聞かれた。
散々人の話をぶち込みながら、私は自身の経験をいれたりはしない。
ethnographyにも、「自己民族誌(記述誌)」という種類はあるけれど、それを書くつもりはない。
論文だから、自分のargumentをはっきりと書くし、それが自分の経験を直接書くことじゃなくても、私にとっては自己を見せることと一緒だと思っている。
だからといって、自分のことを話すのが嫌だとかそういうわけではない。
聞かれたら話すし、それ自体に抵抗はない。

ただ、自分のことを記述するとしたら、それは論文以外の形がいいなと思っている。
それがこのブログのような形かもしれないし、また別の形かもしれない。
いずれひとつの形に残したいとは、ひそかに思っている。


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昔、だいすきな友達と食べたものを、別の友達と食べた。
あの子は今頃、どこで何をしているんだろう。
何を考えているんだろう。
不思議なことに、いつでも連絡ができる今よりも、連絡手段なんてもたなかった昔の方が、あの子を近くに感じる。

2017.06.06

体が重たくて、なかなかベッドから出られない。
なんとか起こすものの、今度はなかなか朝の支度ができない。
今日は家で過ごすか?と脳裏に浮かんだ考えも、勉強道具を研究室に置いてきたせいでそうもいかない。
怠い心と体を引きずって外に出ると、雨が降っている。
そういえば今日は公休日で、学校は人気がない。

たまに、こういう日がある。
ちょっとした不幸を詰め込んだ、上手くいかない1日。
心折れて、閉ざしてしまいたくもなるけど、立ち止まってしまうにはまだ早い。
そのためには、どうにかエネルギーを。
物理的でも心理的でも、なんでもいいから。


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2017.06.05

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月曜日の授業が終講になり、夜はみんなで打ち上げ。
この授業は生徒数が少なくて、ほぼ毎週発表やらされるのはつらかったけど、クラスでギュッと距離感が近くなれたのはよかったかな。
とりあえず、他の授業はあと2週残っているけど、ひとつ減るだけでもありがたい。

なんか久しぶりに私のことをいろいろと聞かれた。
自分の育ちや背景について質問を受けることは、昔からずっとだったので慣れてはいるけど、私は内面を他人にかき回されるような感覚になるのが本当に嫌だった。
「理解してくれないなら、放っといてくれ」と本気で思ったし、不躾な好奇心に気を悪くすることも多かった。

お?と思ったのが、不思議とそういう気持ちにならなかったことだ。
割り切れるようになったのかもしれないし、あるいは他人の評価に気を払わなくなったのかもしれない。
どちらにせよ、自分の変化に驚きつつ、まぁ悪くないかなと。


久しぶりに、苦手な人ができたのかもしれなくて、そのことが少しずつストレスになっている。
こんな過敏に考える必要ないってわかっているのだけど、割り切れるほど大人にもなれていない。
あまり思い詰めないようにしたいけれど。

2017.06.01

先日、夜中に家がバタバタする気配を感じた。
そのとき私は、学校から23時過ぎに帰宅して倒れるように寝ていたのだけど、ほんのりと意識だけあった。
なんだろうと思いつつ、身体がとにかく重くて動けず、静かになるとすぐに意識はまた遠くなっていった。

課題をやろうと5時に起きたら、家の中に人の気配がなかった。
夜中のバタバタを思い出しながら、おじいちゃんに連絡をしてみると、夜中におばあちゃんの容態が悪くなり、急遽救急車で病院に行って検査を受けたという。
とにかく動揺したが、しばらくして帰ってきて、後日また検査を受けて、手術の必要まではないことがわかり、胸を撫で下ろした。


一緒に住んでいる祖父母は、健康的な性格をしていて、ちゃんと食べるし、それ以上に2人とも活動的でよく動く。
私よりもずっと健康だな、と思っていたけど、今回のことで意識がグッと変わった。
吉本ばななの『キッチン』でこういう記述を見たことがあるけど、高齢者と一緒に住むということは、死を身近に感じる生活であることだという。

今までこういう風に感じたことがなかったので、それがすごく恐ろしくなった。
もっとしっかりしよう、私。
なんのために一緒に住んでいるのか。


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以前、学校で見かけたリス。
校内の森で散歩するのがすきだ。

いつのまにか6月。
今月は死んだように生きる月間になる。
魂が死なないように、心が枯れないように。