2017.05.08
神様が大地と水と太陽をくれた
大地と水と太陽がりんごの木をくれた
りんごの木が真っ赤なりんごの実をくれた
そのりんごをあなたがわたしにくれた
やわらかいふたつのてのひらに包んで
まるで世界の初まりのような
朝の光といっしょに何ひとつ言葉はなくとも
あなたは私に今日をくれた
失われることのない時をくれた
りんごをみのらせた人々のほほえみと歌をくれた
もしかすると悲しみも
私たちの上に広がる青空にひそむ
あのあてどないものに逆らってそうしてあなたは自分でも気づかずに
あなたの魂のいちばんおいしいところを
私にくれた谷川俊太郎
「魂のいちばんおいしいところ」
メンタルがどん底のときに、ただ私が話す言葉を静かに聞いてくれた。
泣くことを許してくれた。
魂のいちばんおいしいところを受けとった。
谷川俊太郎さんのこの詩こそ、私の知る愛の美しい姿だ。
温かくて眩しい詩。
今日はこの言葉のような、温かくて眩しい言葉を受けとった。
いろんなことはあるし、私はきっとこれからも負け続けて、メッタメタに落ちこむであろう。
そんな私にも、一筋の光どころか、太陽のような言葉をもらった。
負け続けても、がんばります。
2017.05.04
昨日はちょっぴり遠出をした。
ソウルから出たのはいつぶりだろう。
まじめに考えると悲しくなるけど、たぶん学期始まって以来初めてなのかな。
ソウルを出るのも一苦労。
友達と目指したのは、ソンド(松島/송도)という開発都市で、仁川空港の近く。
国が投資して開発を進めているのは知っていたけど、行ってみたら期待以上に良くて驚いた。
特に気に入ったのは、セントラルパークという大きな公園。
かなり大きくて、一周ぐるりとしただけで友達もわたしもぐったりした。
今調べてみたら、東京ドーム9個分の大きさらしい。
そりゃぐったりするか。
都市の中に自然がたくさんあって、とにかく癒された。
友達ともたくさんのことを話したし、何より一日中リラックスした状態で日常から抜け出せて本当によかった。
公園でたくさん写真も撮ったのだけど、久しぶりのフィルムで撮ったので、写真は手元にまだない。
現像にもっていくのも、待つのも楽しみだ。
ようやく、連休らしい一日を過ごせたのかな。
家の近くにも、自然に囲まれた公園があればいいのに。
なによりも、ソウルの空気さえ良ければ。
気のせいでも大げさでもなく、ソウルに戻ってきたとき、咳が止まらなくなった。
2017.05.02
連休中も元気に登校。
相変わらずの空気の悪さにぐったり。
今日はひたすら本を読んだ。
同時進行でがつがつ本を読むのが久しぶりで、最近は全然勉強ができていないことを体感した。
- 作者: クリストファー・ラッシュ,石川弘義
- 出版社/メーカー: ナツメ社
- 発売日: 1981/02
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教授に勧められて、クリストファー・ラッシュに手を出した。
人類学は、精神分析学とも関わりが深くて、大学院に入ってからよく読むようになった。
ここでいう「現代人」は、80年代のアメリカ人のことを指しているんだろうけど、今にも適用できる部分が多くて、まだ途中だけどおもしろく読んでいる。
精神分析学とか心理学の本を読んでいると、改めてフロイトの功績を思い知る。
授業で読んでいた本で、「ナルシシズム」についての文脈があったけれど、他の分野でもナルシシズムについて触れることが多い。
「自己愛」と訳されたり、「自己承認欲求が強く、他人に関心のない人」と認識されがちだけど、ナルシシズムを拗らせている人って、誰よりも自分のことを愛せない人なんだよなぁ。
自分が愛されなかった記憶の悲しみと、その対象に対する憎しみの罪悪感を消すため、自分を責めるという行為も、ナルシシズムの二元的な現れだ。
個人対個人の関係が薄れ、より自分に集中するような今の時代は、この著書の時代よりもナルシシズムを患っている人が多いんだなと思うけど、ラッシュが『程度の差はあれ、誰もがナルシシズムを患っている』というのはおもしろいと思った。
こういう話って、セラピストじゃないと直接聞く機会がないよなぁ。
インタビュー重ねながら、言葉の文脈から分析することはできても、こういう話を聞けたら良いのにと思うけど、じゃあ自分は話すのかと聞かれたら、それはまた別の話か。
まぁ、その分、ここで好き勝手に書いているけれど。
『自分の感情を昇華させることができないと、よりナルシシズムを強化させることになる』ともいっていたけれど、私にとってはまさにここで書くことが、感情を昇華させる方法の一つなんだなと。
- 作者: アルジュン・アパドゥライ,藤倉達郎
- 出版社/メーカー: 世界思想社
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そろそろ期末の理論の枠組みを始めなくては、と手に取った本。
前学期、アパデュライの<Modernity At Large>は読んだけれど、これはそのあとに出た著作。
Modernity At Largeのときも、5つのスケイプを用いてトランスナショナルを捉えたのがおもしろかったけれど、これはそれを補足しつつ、「マイノリティ」の方に注目している。
特に、テロリズムを代表する「暴力性」の正体はなんなのか、ていうのが全体のテーマなのかな。
私の研究テーマは、「トランスナショナリズム理論」を大きい土台にするつもりなので、切っても切れないのがアパデュライのトランスナショナリズム理論。
前学期までは、ナショナリズム理論を中心に見てたけど、やっぱりそれだけじゃ無理そうだと実感。
なんとか消化して、自分の言語で語れるようになるといいけど。
本自体はおもしろいし、内容も自分の関心分野だから、さらさらと読める。
そしてここでも「ナルシシズム」が登場。
マイノリティ・マジョリティの緊張関係とナルシシズムの衝突による考察は、なるほどと思った。
- 作者: 朝井リョウ
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2014/04/10
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まだ読み終わってないけど、この空気感がどうしようもなく懐かしいと思った。
「群馬」「高円寺」「中野」とかいう地名も、私にとってはどうしようもないノスタルジーだ。
朝井リョウは、言語化されない空気感を文字にするのが上手いと思う。
今作は、いわば大学生版の桐島って感じがする。
楽しすぎる瞬間は、真っただ中にいるとなぜか泣きたい気持ちになる。両手で抱えきれないこの幸福は、早く過ぎてしまって思い出になってほしいと思う。
今が大事だってわかっているからこそ、この感情に共感してしまった。
いっそう早く思い出になってくれ!と叫びたくなる多幸感も。
2017.05.01
世間は連休の中、我関せず登校。
授業があったからだ。
まぁそれでも、今週は水曜日の授業がないので、わりとのんびりできるのかな、と予定をちょくちょく入れたけれど、思ったよりもやることが多い。
来週は発表もあるし、結局スキマ時間にちょこちょこやらなきゃな。
ソウルは天気が良いけれど、相変わらず空気が悪い。
思いっきり外で遊びたいけれど、それもちょっと不可能。
研究室の何人かと、学校の外に出て夕飯を食べて、カフェで話して。
こういう時間が久しぶりのように思えたし、新入生とこういう時間をもつのは初めてだった。
とても良い時間だった。
時間を忘れるくらい、たくさんのことをしゃべったし、自分の考えが思ったよりも整理できた。
勉強の話も、それ以外も。
昔は、「私はこの研究室に馴染むことはできないんだろうなぁ」という確信があったけれど、1年以上が過ぎた今の自分が驚きだった。
なんだ、ちゃんと馴染んでるじゃん。
あと、改めて人と話すことの意義を感じた。
人間らしい心のために、やっぱり人との触れ合いって大事だ。
「たぶん私たち、期末のとき今のこういう時間を羨ましく思うよ」という言葉に笑いつつ、激しく同感した。
期末まであとひと月。
そう考えると時間がない。
つらいことから逃げたくなるけれど、グッと耐えて、ちゃんと向き合わなきゃ。
きっとこういう記憶が、後の私を照らす光になるかもしれないんだから。
にしても、天気が良くて、気持ちもそれに引っぱられるように明るくなる。
良い一日だった。
幸先の良いメーデーのスタート。
2017.04.29
最近はマイナスの感情に引っぱられっぱなしだったけど、なんとか持ち直した。
昨日はいろんな人と、本当にいろんな話をした。
思いがけず、深い話を共有したし、私もいろんな感情をさらけ出した。
私はこんなことを考えてたのか、と自分でも驚いた部分もあった。
この人は、私の知らないところでこんなことがあったのか、こんなことを考えていたのか、と感心したり、感情移入したり、情緒が忙しかった。
当たり前だけど、私は他人のことをよく知らないし、他人は私のことをよく知らない。
そんな当たり前なことをよく忘れて、私が知っていることが全部であるかのように振舞ってしまう。
うん、やっぱりここで諦められない。
あと私は人と話すことがすきだ。
それは心地よいことばかりではなくて、刺激が強かったり、思ったようにいかないけれど、でも誰かと思わず感情が重なって、泣きたくなるほどうれしくなるときもある。
投げ出さなくてよかったし、これからも投げ出さずにがんばろうと、意志をまた再確認した。
今日はいとこの娘(って日本語でなんていうんだろう?未だに日本語での親戚の関係がよくわからない)が1歳の誕生日で、そのお祝いに駆けつけた。
韓国では돌잔치といって、盛大にお祝いをするのだ。
日本でもこういう行事があるのだろうか?
父方の家系では、いとこの中で私がいちばん末っ子で、6人いるいとこの中で3人はもう結婚して子どももいる。
こういう席にいると、家族がどんどん増えていくことを実感する。
久しぶりにたくさん親戚に会えてよかったな。
2017.04.27
昨日のことで気分は落ちていたけど、助教の仕事があるので重い体を引きずって学校へ。
憂鬱な原因を先輩に話していたら、「なんで今日学校に来たの?そういうときは休みなよ!」と。
それもそうか、と。どちみち、この状態で何もできない。
仕事を切り上げ、研究室を飛び出した。
恵化洞エリアに来たのは久しぶりだ。
ネットで見かけて気になった、ビーガン向けのケーキ屋さん。
素材のやさしい味がして、オーナーが丁寧に作っていることが伝わった。
帰り間際、来月移転することを教えてもらったけど、私の家の方に近くなってうれしい限り。
少しだけ、自分のために贅沢な時間を使い、頭痛がするので早めに帰宅した。
- 作者: 島本理生
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- 発売日: 2009/02/25
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図書館で借りた、島本理生さんの『一千一秒の日々』。
私は、本に関しては強いこだわりがなくて、作家読みよりもそのときどきの気分で選ぶけれど、唯一作家読みするのが島本理生さんなのかもしれない。
この本も昔読んだけれど、久しぶりに彼女の本が読みたくなって手を伸ばした。
島本理生さんの作品に惹かれるのは、彼女の描く人間がすきだからなのかもしれない。
「隙の多い人」と評したけれど、空間を和らげたり、どうしようもない暗闇に引っぱる人物がよく登場する。
そんな危うさに惹きつけられてしまうし、その弱さに共感したりもする。
そして、そういう人たちを救う一筋の光を、心底うらやましいとも思う。
昔この本を読んだときは、あまり印象に残らなかったけれど、その頃よりも時間を重ねた今の自分には、彼女たちの感情に共感する部分もあったり、魅力的に見えたりした。
やはり私は、彼女の作品に登場する「人間くささ」がすきらしい。
「がんばったんだけど、ダメだった。なんでだろう、どうしてこんなふうになったんだろう。(…)自分がなにもかも悪いような気がしてたまらなかった。夜が長すぎて、淋しいよりも悲しいよりも怖かった。朝が来たのに新しくならない、眠るのも全部をリセットするんじゃなくて、ほんの数時間だけ見ないふりさせてくれるだけで、でも、何度も楽しかった頃のことが夢に出てきて、たまらなかった」
「加納君はよく、そういうふうにすべて自分の責任みたいな言い方をするけれど、私はべつに助けてほしいと思っていなかったよ。ただ、いつも君が申し訳なさそうな表情をしていることのほうがつらかった。家族のことだって。あまり両親が上手くいっていない、いっていない、ていう言葉のくり返しで。君が殻の中にいて、私はいつもその外側にいるみたいだった。大変だったら手助けしたいと思うのはわたしだって同じだったんだよ」
そう言うと、加納君は苦笑して
「そこが男と女の違いなのかもしれないな。なにか問題があったとき、男の場合はだれかに話したりせずに一人で考えたいと思う傾向が強いらしいんだ。だけど女の人は逆で、話して発散しようとするんだって、君と僕がすれ違ったのはそういう考え方の相違も原因だったのかもしれない」
なるほどね、と私は少し感心して頷いた。
2017.04.26
最近の自分があまりにメンタルが落ちこんでいて、なかなかここに文字を書きたい気力がわかない。
つらくても、その経験が資本になると信じて、こうやって文字を書く場をもっているけれど、それにも向き合えないくらいしんどいのは、本当に初めてなのかもしれない。
どうやったら、この暗いトンネルから抜け出せるのか。
途中途中で、明るく持ち直すタイミングはあるのに、それがまた持続できないのだから、本当に相当なものだと思う。
今日は、先輩たちが論文の予備審査の日だった。
予備審査を通過すれば、のちに本審査をみることができて、本審査を通過すればいよいよ卒業なのだけど。
予備審査は、見学もできるので、朝から研究室の人が集まりセミナー室へ。
一応、前学期も見ていたけれど、前回と指導教授が違うので、また違う雰囲気だった。
私の学科の教授たちは、とにかく「こわい」「キツい」「攻撃的」と、学科内外問わず有名だ。
今回の学生たちの指導教授が、その中でボスみたいな教授なので、とにかく迫力があった。
とにかく怒られる。
論文において、文の書き方、背景の理論について、研究の方法論について、研究協力者について、研究者の位置、さらには研究者の性格についても、ズシズシと指摘される。
聞いてる私が怒られているわけでもないのに、なんだか涙が出そうになった。
今回は本当に教授の指摘がひどいケースだったらしく、観客にいた私たちは顔を下げてしまうくらい。
まぁ、先輩たちはみんな無事、予備審査を通過できて、ふた月後に本審査を見るわけだけど、朝からハイカロリーなものを見たせいで、ぐったりと疲れてしまった。
ところが、今日は夜に他大との合同セミナーがあり、そして私たちの学校が発表する番だった。
なんとか準備を終え、発表に向かったのだけど、私たちはひとり残らず3人の教授にメッタメタに刺され、メンタル崩壊しながら撃沈。
予備審査の指導教授だった教授の授業なのだけど、この教授は体力の鬼なのか、夜でも容赦なく私たちを絞り上げるのだ。
発表を終えたのにスッキリできない気持ちで、私たちは帰路に向かうのだった。
不安なことに、私が現在指導教授として考えている教授がまさしく、このボス的な教授なのだ。
この教授とは、初めて会ったときからメッタメタに刺された経験があり、1年間この教授を避けて避けて来たけど、無視できない事実は、私の研究テーマとこの教授の研究テーマが同じ領域であることだ。
なんとかがんばってみようと、今学期この教授の授業を取ったものの、今日の予備審査の様子を見ながら、自分がメッタメタに刺される場面が浮かび、「こんなに苦労してまで論文って書かなきゃいけないのか?」という気持ちにまでなった。
今日だけでも、予備審査と授業の2つの場面で、この教授は絶対に褒めないタイプなのだ。
「出来ていることは褒めず、出来ないことを責める」という、典型的な韓国の教授タイプで、他の教授が可哀想に思ったのか、「でも、よくできてたよ」とフォローいれる場面でも、嘲笑うようなタイプなのだ。
まぁ、私たちが褒めるに値しないレベルで、未熟なのだろうけど…。
ちょっと心配なのは、私がかなり自己否定を拗らせている状態で、この教授と付き合っていく場合、さらに悪化させてしまわないかということ。
かといって、単にこれだけの理由で、別の教授を選ぶのは、きついことを避けているに過ぎないのだけど。
こんなことを1日中考えながら、「自ら茨の道を選んで生きているよね。もっと楽して生きればいいのに」という言葉を思い出す。
その通りなんだけど、私はなんだかんだ、いちばん苦しい道を選んでしまうタイプのようだ。
今週末を無事に迎えるのが目標だけれど、どうなることやら。
助教の仕事が急に切羽詰まった状態なので、心理状態が落ちつかない。
とりあえず、仕事処理をしっかり終わらせられるように。